ダンス部の練習中は常に音楽がある。ナニガシカの曲がかかっている。最近、練習中宇多田ヒカルの歌声をよく聴く。そんなことを思っていると、朝のテレビ番組から彼女の新曲が流れてきた。人間活動に専念するということで、しばらく歌手活動は休止していたようであるが、復帰して新しい楽曲を発表。歌声が変わっているな。

よい歌が聴こえてくる。

何年前か10数年前、彼女がデビューした時、天才やなと素直に感じた。数万人100万人いやもっとかにひとりこんな人が存在して多くの人を惹きつける作品を世に贈る。わずか16歳とかで。

今の彼女の歌。それでもやはり、その人そのものがその作品に反映されるんやなと感じる。どう生きているか。

数日前、一条の卒業生が学校に来ていた。在校時、担任をしていた生徒。遠くから俺を見つけて大声で俺の名前を呼んで手を振っている。誰かな、まあすぐにわかった。吹奏楽部だった彼女、OGとして来たるレギュラーコンサートにも吹く。

そして楽器もその人の性格によって、何を担当するか決まるという。醸し出される楽器🎺からの音もその人があらわれるという。音は人をあらわしている、という。彼女とそんな会話を交わした。

ダンスも同じやな。どんな風に生きているか。それが、ダンスによって表現される。究極的にはそういうことになる。もちろんそこにいたるまでの道のりは長く険しい。技術を研くためのトレーニングをひたすら積まなければならない。

ひたすら積まなならんな。だけど、究極的にはそういうことなる。人がそのダンスそのものになる。