人類がなぜ愚行を繰り返すのか。それを回避するすべはあるのか。
ちょっとひとやすみして、政治哲学者ハンナ・アーレントの言う「思考の欠如と凡庸な悪」を手掛かりに考えてみたい。
第2次世界大戦時におけるナチスによるユダヤ人の大量虐殺。その行為を現場で遂行した人物はいったい何を考えていたのか。
アイヒマンという元ナチス官僚の裁判が1961年にはじまった。それまでの期間、アイヒマンは逃亡生活を続けていたがアルゼンチンで見つかって逮捕されイェルサレムで裁判にかけられることになった。
この裁判についてアーレントは自ら興味を持ち、徹底的に調べ上げ、責任を感じながら書き、その結果圧倒的な非難の嵐にあう。
ナチスの元官僚アイヒマンは、特別な悪の怪物ではないと。つまらない平凡な男であり、思考が欠如しており、自分で考えるということを放棄していただけであると。
私たちのもっとも大きな敵はこのような「凡庸な悪」であると、アーレントは言っている。
実際に元官僚アイヒマンは、裁判において自分は職務を忠実に執行しただけであると繰り返し述べた。役人として命令に従っただけであると繰り返した。きわめて官僚的に。
この裁判を取材し執筆したアーレントは、多くの批判にさらされ、攻撃を受けた。
ユダヤ人であるはずのアーレントは、ユダヤ人を擁護せず、逆にナチス官僚の責任を軽くし、ユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしている、と言われた。批判の動きはキャンペーンとしての広がりをみせ、彼女のテクストをまったく読んでいない大量の人から追い詰められ、窮地に立った。
それでも彼女はその言説の勢いを緩めることはなく、多くの古い友人さえ失うことになる。そのことは、そのことだけはさすがに彼女を苦しめた。
人は、自分の物語をすでにもっている。その物語を信じて疑わず、物語に正当性や整合性を付与する言説を求めている。そして、歴史のある地点で集団となってある種の物語を共有する。アーレントは事実とは何かを追求した。考え続けることを求めた。
アーレントの的を得た言説は多くの人を傷つけた。最後までアーレントを励まし続けたヤスパースはこう言っている。彼女の言説は「嘘に立てこもって生きているあれほど多くの人のいちばん痛いところを衝いた」のだ、と。
世の中の多くの人は「正しいこと」を求めて生きているのではないのだろうな、と思う。自分の安心できる物語を求めている。
アーレントのように事実を掘り下げ、愚行の真実を突き止め、人間のもつ人間性の善さを維持するためにどうしたらよいのかを哲学的に思考し、考え続けられる人間はきわめて少ない。私はほとんどあったことがない。
アーレントは言う。複数の人々が距離をもって結びついたり、離れたりする場が大切であると。その適度な距離を保つことが自由な思考を生み出す土壌となる。
瀰漫する悪の凡庸さを回避し、思考の自由を守るためには人と人との距離が必要なのである。
また沖仲仕の哲学者、われらがエリック・ホッファーはこう言っている。
「人間は本能の不完全さゆえに知覚から行動へ移る間に、ためらいと模索のための『ちょっとした休憩』を必要とする。この『ちょっとした休憩』こそが理解、洞察、想像、概念の温床であり、それらが創造的プロセスの縦糸となり横糸となる。『ちょっとした休憩』の短縮は、非人間化を促す」
以上 顧問のちょっとした休憩でした。
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